勝ちもない 負けもない

「子どもは親の持ち物」という、日本独特の考え方、強いこだわりのようなものが、この殺人事件にも見えると思います。そうじゃない、あなたのものじゃない、家の中という密室で、あなたが抱え込み、自分の手で始末をつけようなんて、それはしてはいけない、そう私は思います。

家庭内の暴力に端を発する、親による子への殺人事件の公判が行われ、懲役8年が求刑されました。親による子への、子による親への暴力や殺人は、あとを絶ちません。日本の殺人事件の約半数以上が近親者同士の殺人、つまり親族間殺人であり、その数は年々増え続けていると言われています。*1

この国の親子関係の閉塞感、その正体はどこからくるのでしょうか。

「子どもは親の育て方しだい」とばかりに、子どもに最大限に自分の影響を与え、自分の理想の人間を作ろうとすることや、家の中の子育ての問題を、家の外の誰にもゆだねず、困ったことがあっても他人に相談もせず、頼りもしないで乗り切ろうとすることは、大きなリスクを伴うと、私は思います。それは「家庭の密室化」につながるからです。

私の子育ては、自分が働くために、子どもを保育士さんにゆだね、その知恵をいただきながら、励ましてもらいながら一緒に子育てをしてきたのですが、それは「家庭の密室化」を避ける上でも、ありがたいことでした。

我が家の子どもたちは「自分の親以外のたくさんの人たち」に、ごく幼いころから、たくさん出会うことができたからです。

キャンプに連れて行ってくれる大人、カブトムシの森に連れて行ってくれる大人、山登りに連れて行ってくれる友達のお父さん、毎週家の前にパンを売りに来てくれる障がい者福祉施設の人たち、クラブのコーチ、自称元ヤンキーの、明るくて面白いチームメイトのお父さん、お母さん・・・。

子どもたちのまわりには、実に多様な大人たちがいて、ときには両親よりも魅力的で心惹かれる人として、あこがれながら、彼らは大きくなりました。「うちの両親よりも、面白い大人は世の中にたくさんいる」という真実を、我が家の子どもはは知っていたのですが、それもまた、ありがたいことでした。家の中で向き合いすぎる親子の関係性は、お互いにとって息苦しいからです。

先日読んだ本の中で*2子どもが親に対して暴力を向ける理由について、著者が、ある分析をしています。

多くの教育熱心な親たちが子どもの心に『勝ち組』になることを最大の価値として刷り込み、それ以外の道を示さず、『負け組』にだけはなるな と子どもを追いつめていく、いわゆる『勝ち組教育』が、この日本に蔓延し、ほとんどの親がその影響から逃れることができない状態である、というのです。『勝ち組になれ』と願う親の期待に添うように頑張ってきた子どもは、何らかの理由で一歩でも、そのレールから外れた途端、『自分はもう負け組なんだ』という絶望と共に、不安や焦りから、自らを傷つけたり、このような道しか自分に示さなかった親に対する怨みを持ち、暴言や暴力を向け始める、と言うのです。

「勝ち組」という言葉は、いつから言われ始めたのでしょうか。もちろん私たちの子ども時代からも、そういう考え方はあったのでしょうが、「勝ち組」という文言はここ十年以内に、「格差社会」とともに、よく聞くようになりました。なんとも寒々しい言葉だと思います。

例えば100人の子どもがいたとして、学業成績順に一番から100番まで並べておいて、なおかつ全員に「勝つ」ことを期待するのは、物理的に無理な話です。99番や100番の子をわざわざ作っているのは自分たちのシステムなのです。100人のうちの半数以上の子どもに「負け」の気分をむりやり味わわせて、その犠牲のうえに少数の「勝ち組」を作る、という悪趣味をしているのが、今のシステムの現実なのです。矛盾もいいところです。

格差が広がり続ける日本社会で、「勝ち」「負け」という線引きの呪縛から自由になることは難しいのでしょうか。

『自分は勝ち組だ』と常に自らに確認し、そこから転がり落ちないために、自分の子どもにも『勝ち組教育』を施し、自分たち以外の『負け組』を見下すような「完全なる勝ち組」という人生は、もしかしたら、ある種 息苦しい、不安に苛まれる人生なのかもしれません。

例えば、一流の学歴を持ち、一流の会社に正社員として就職することができたとしても、「自分は完全な勝ち組だ」と確信することは難しいと思います。どんなに優れた人でも、ちょっとしたきっかけで病気や怪我をしたり、仕事を失ったり、会社が傾いたりすることがないともかぎりません。未来のことは誰にもわかりません。かりに職を失っても、かりに病気になっても、どんなことがあっても、しっかり生き抜くことができる人というのは、「勝ち組」なのではなくて、むしろ「勝ち負けのものさしを手放した人」なのでしょう。勝ち負けから降りて、「グレー」でいい、と自分自身の存在そのものを認められる人こそ、本当の意味で、しなやかに生きていけるひとであるような気がするのです。

高学歴でなければならない、一流でなければならない、それ以外の人生はありえない、という、狭い狭い世界を子どもに示すのではなく、有名な学校に行かなくても、正社員でなくても、元気に楽しく生きている大人はいるよ、ほらこんなに幸せに、機嫌よく生きている大人がいるよ、と、子どもに示してあげられるような大人のたくさんいる社会であれたらいいのにと思います。

実際、人生の幸福というのはそれぞれの個人的な感覚によって彩られるもので、「あの人よりはましだ」とか、「あの人に勝っているから」などといった理由で、幸福度が決まるものではないような気がします。

『勝ち』をめざさず、『負け』を恐れず、勝ちもない負けもない、最初から勝ち負けを意識しない、ありえない妄想かもしれませんが、そんな社会にいっそなれたら、『教育虐待」による『親子殺人』がなくなるような気がするのです。

子どもは、幸せになるために成長してほしい。そして人生で、どんな不運に見舞われても、たくましく生き抜いて欲しい。かりにあなたが病気になっても、仕事を失っても、どうか生きて、生きていくなかでしあわせを見つけて欲しい。

大切なのは、勝ち負けじゃなくてあなただから、あなたのその命だから、と心から思っていて、それは多くの人が同じように感じているのではないかと、私は思うのですが。

 

 

 

 

*1『子供の死を祈る親たち』(新潮社)押川剛

*2『暴力は親に向かう』(新潮文庫)二神能基

 

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